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正六位上 薩摩守
吳 樓船水軍

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发表于 2010-2-19 00:49:31 |只看该作者 |倒序浏览
明智光秀は戦国の世を生き抜き天下の行方を見守った!
      これは私Minstrelが史実、異説、風説、伝説等を集め、整理し、推理を加えて考察した歴史遊びです。錯覚したり鵜呑みにして勘違いを引き起こしても何の保証もありませんのでそれぞれの解釈、遊び心次第でお楽しみ下さい。楽しくなくても、これまた何の保証もありません。
      前書き
      過去という永遠の闇に消えてしまった事実がある。この永遠の闇にライト当て、わずかに見えたものを組み合わせ判断したものが歴史である。闇すべてを照らすことは出来ない。過去に行けばいくほど深い闇に閉ざされている。組み合わせ方は他にないだろうか?他の判断はないだろうか?ライトに照らし出されたものを見てみよう。意外な歴史が浮かび上がるかもしれない。その判断は個々にお任せしたい。
      本能寺の変
      天正10年6月2日払暁、破竹の勢いで天下を握りつつある織田信長が部下である明智光秀の謀反により京都-本能寺に倒れる。
      羽柴秀吉ら信長の部下たちは各地に散り、信長自身もわずかの手勢しか連れておらず、光秀は信長打倒の絶好の機会を生かしたのである。だがこの後、毛利に苦戦中だった秀吉がアッという間に和睦をまとめ、京都に戻り、明智勢と合戦、光秀はわずか10日余りで討たれてしまう。最期は農民に竹槍でつかれるという悲惨なものだった。光秀を討った秀吉がやがて天下を取る。
      本当に光秀が犯人か?
      言うまでもなく、本能寺において主君を討ったのは明智光秀である。ほとんど常識である。しかし、本当にそうだろうか。いくつか疑問点を挙げておく。
      事件は6月1日夜明け前に起こっている。時刻は午前4時頃で、出火炎上したのは午前7時から7時半と推定される。
      ところが光秀が上洛したのは午前9時頃という説がある。つまり、事件当時光秀は現場に到着していなかったというのである。ならば光秀はどこにいたのだろう。これに関しては残念ながら正確な史料は残っていないのでわからない。
      事件の3日前の5月28日(この年の五月は29日まで)に愛宕山に登っていることは確かである。一般には翌日に下山したように思われているが、権中納言山科言経の日記『言経卿記』によるとこの日はどしゃ降りで下山は不可能であったという。従って、下山は6月1日になってからということになり、この後、丹波の亀山城に戻り、1万3千の兵を率い、2日早くに京に入るのは不可能だと思われる。
      これについては真相はよくわからない。が、本能寺の変についてナゾが多いということは言えるだろう。
      明智光秀の動機
      明智光秀は、織田家に中途採用された人物であるが、頭がよく、インテリで、同じく中途採用の秀吉と出世街道を爆進中であった。
      主君-信長を討った本能寺の変は光秀の個人的な恨みによるものであるとよく聞くが、果たしてそうなのであろうか。古来から信長襲撃の引き金として語られる話しは一つしかなく、それは家康の接待役を務めていたが、信長が満座の中で光秀に屈辱を与えたために面目を失ったというもの。これは江戸時代の入ってから成立した川角(かわすみ)の『太閤記』にのみあるという。もちろん川角『太閤記』は史料価値のあるものだが、これだけでは説得力に欠けるだろう。戦国時代に関する情報を得る際、そのほとんどは江戸時代以降に書かれたものであり、比較的近い時代に書かれたものもあれば、それらを基に書かれた二次的な史料、単なる小説もある。全部を鵜呑みにすると混乱を招くだけで、原典の分析を伴った研究が必要である。しかし実際は様々な史料が混ぜこぜになって使用されている場合が多く、そのため多くの説が乱立することになる。(このページのものもその一つかもしれないが)
      生母を見殺しにされた恨みが直接の原因であるとも言われている。だが、信心深く、慎重で頭の良いな光秀が一時の激情に任せ、安直な行動に出るだろうか。用意周到な光秀が、多少の計算違いがあったにせよ、その後アッという間に討たれてしまうようなことをするとは私は考えにくい。だが事実、光秀は行動を起こした。
      実は明智光秀という人物が歴史上に登場するのは40歳を過ぎてからである。それ以前、どこで何をしていたのかは全く不明なのだ。土岐氏の流れの出身で、40歳を過ぎてから朝倉家や将軍足利義昭に仕えた後、信長の部下になっている。信長に仕える以前でわかっているのはこれくらいなのだ。従って、年齢もハッキリした数字ではない。
      背後関係
      頭が良く、計算高い光秀が一人無謀な策に出たのか?いやそうは思えない。光秀の背後から糸をひく人物がいたのではないだろうか?単独行動ではなく、光秀を納得させ行動させた人物がいたとは考えられないだろうか。
      もし、光秀の単独行動であるならば、もっと事件前に色々な調整をしたはずである。各地に信長に敵意を持つ勢力も多かったし、朝廷や公家とも通じるはず。細川親子や他の信長の家臣たちに対する働きかけも十二分にあったはずだ。信長にバレることを恐れたのかだろうか。
      本能寺襲撃の最終決定は直前のことであったようだ。しかしこれは光秀の優柔不断さを物語っているのではない。慎重さを表わしている。当時、戦さの直前に歌会を開く風習があったのだが、光秀も愛宕山で歌会を開き、次のような歌を詠んでいる。
      「時は今あめが下しる五月哉」
      「時」は「土岐」、「あめ(雨)が下しる」は「天下」を表わし、土岐氏が天下をとることを暗示しているのだ。光秀の心はこの時に決まっていたと思われる。既に何者かとの打ち合わせは完了していたのではないだろうか。
      事件の背後関係を考える場合、事件によって最も良い思いをした者があやしいと考える。本能寺の変で最も良い思いをしたのは——?
      羽柴秀吉
      まっ先にピンと来るのは羽柴秀吉だろう。秀吉と光秀とは出世争いのライバル関係にあった。事件当時、秀吉は中国攻めで毛利と戦い苦戦中。なんとか備中高松城を落としものの、信長に援軍を要請し、毛利本隊との決戦を間近に控えていた。要請を受けた信長は光秀とともに秀吉の援軍にむかう途中だったのだ。
      このような状況下、本能寺の変を知り、決戦間近で意気の上がる目前の敵-毛利と和睦し、新幹線もクルマもない時代に中国大返し、実質5日間で京都に戻り、疲れをとる間もなく戦上手の光秀と決戦、これに勝利する。あまりにも出来すぎた話しではないだろうか?移動距離は1日約40キロの計算になる。フルマラソンを5日連続で走った直後に生死をかけた決戦に挑むわけだ。現実的な話しとは思えない。
      もし、光秀と秀吉が通じていて、信長襲撃を最初から知っていたとしたら——?秀吉も信長を恐れていた。恐怖の大魔王と呼ばれた信長が死ねば天下は秀吉に転がって来るかもしれない。事実、この後、秀吉は天下人となった。光秀と共謀したのは秀吉だろうか?
      だが共謀相手の光秀と直後に戦いになっているのはどうしたわけか。信長襲撃は打ち合わせ通りだったが、秀吉は光秀を裏切り、最初から信長の次は光秀を討ち滅ぼすつもりだったのか。秀吉の方が一枚上手だったのかもしれない。だが、それにしても毛利と決戦間近であったことも事実で、もし毛利との和睦に失敗していれば、光秀が天下人である。秀吉説はどうも辻褄が合わない。
      天皇家
      昔から天皇家はその権力が危うくなると、陰謀を企てている。古くは長屋王の事件があり、源頼朝に対し義経を操ったり、足利尊氏に対し新田義貞を操ったりしている。江戸時代幕末にも似たようなことがあった。天皇家の陰謀の場合は、それが陰謀とならずに認められてしまうところが怖い。光秀は天皇家の陰謀にはめられ、見捨てられたという線も考えられる。皇太子の誠仁親王はなぜか変後に自害している。光秀と結託していたのだろうか。
      信長はすでに足利将軍家を排除しているし、自らが天皇、またはそれに変わる絶対的権力者になろうと考えていたかもしれない。織田家は源氏の流れではないために将軍にはなれなかったという考えもあるが、秀吉は貴族でないのに関白になっている。家康も源氏ではないのに源氏の子孫になってしまった。信長が将軍になる以上のことを考えていたとしても全く不思議ではないだろう。当時、天皇や公家が信長に対し緊迫感を持っていたことは事実であろう。かたや光秀は天皇を敬う気持ちがあったのではないか。
      だが私は乱世に生きる武将である光秀は現実的な損得の計算もしたのではないかと考える。自分が捨て石になり天皇を守ることに意義を感じただろうか?天皇黒幕説はなかなか魅力的に感じるが、ここでは結論を出さないでおく。皆さんのご意見もお聞かせ願いたい。
      その他の容疑者
      細川親子がアヤシイという話しも聞く。幽斉と忠興である。確かに細川氏はたいした功績もあげていないのに後年、大大名になっている。
      また疑うなら濃姫も疑える。信長と濃姫は政略結婚にすぎない。濃姫は死後、なぜかどの寺院からも埋葬を拒否されている。これはどうしたことだろう。
      徳川家康
      さて、もう一人アヤシイ人物がいる。徳川家康である。実は私が黒幕とにらんでいるのはズバリ、家康だ。他の容疑者も一人ずつ吟味するのが筋だが、長くなりそうなのと本題に一直線に進みたいのとでここでは触れないこととする。興味のある方をそれぞれチェックして見てほしい。
      家康は長男を信長に殺されたようなものであり、恨みはあるし、強大な信長との同盟関係は名ばかり、実際はまったく逆らえず、半家臣状態である。つまり動機はあるということだ。合戦の時の陣や岐阜城、安土城で家康と光秀が密会する機会はいくらでもあっただろう。
      本能寺で信長が討たれた時、わずかな手勢の家康は堺見物中だった。事件を知った一行は光秀に襲われるからと、街道ではなく伊賀の山中を抜け、伊賀忍者の助けをかりて領地に帰っている。これはヤラセではないだろうか?根拠は次の項で述べる。
      家康が絡んでいないように見せるために少ない手勢で堺見物をしたが、全て計算されたものではないだろうか?家康にとって唯一計算外だったのが、秀吉の「中国大返し」だったのでは?と考えてみる。
      土岐氏
      光秀の出自は土岐氏一族である。土岐氏といえば源氏の流れを持つ名門。戦国期には岐阜(稲葉山城)をおさめていた。だが下剋上の世、土岐氏は斎藤道三にその座を奪われてしまう。信長の正室の濃姫はマムシの道三の娘。つまり光秀の宿敵と信長は親戚関係なのである。
      光秀の一族はもともとは伊賀の出身である。ここに矛盾がある。光秀の手を逃れるために、家康は光秀ゆかり地である伊賀を通り、攻められるどころか守られて帰ったというのだ。家康と光秀が裏で通じていたことはここに見い出せるのではないだろうか。
      土岐氏は斎藤道三に城を奪われた後、武田氏や松永氏を頼っていたが、江戸時代に入ると所領を安堵されている。謀反人-光秀の出であり、家康と同盟関係の信長の敵にあたる土岐氏であるのにもかかわらず。江戸幕府は何を考えているのだろう。
      同時に江戸時代には土岐氏や光秀の祭り(名前を忘れてしまった。どなたかご存知の方、教えて)を許してもいる。信長殺しの光秀は謀反人として後世に残るはずが、江戸幕府では容認していたようにさえ見える。光秀について悪く書かれた文書のいくつかが幕府によって消されたという話しもあるそうだ(未確認だが)。天下を取った徳川家と光秀の間には何やらアヤシイ雰囲気があるのは確かである。
      死んだ光秀は影武者か?
      本能寺の変後、うまく逃れたのは家康だけではない。光秀もまたうまくその姿をくらましたという説がある。つまり、秀吉に敗れた後、竹槍に突かれて死んだのは光秀の影武者だったというのだ。光秀は信仰心が強く、信長を排除した後に自分も死んでいいとは考えなかったのではないだろうか。
      計算高い光秀は事件後のことも当然考えていただろう。「三日天下」となってしまうほどの無様をさらすことはなかったはずだ。
      だが、この後歴史上に明智光秀という人物が登場することは二度とない。秀吉と並ぶ有能な武将は本当に死んでしまったのだろうか。届けられた光秀の首は、すでに腐敗が進み、誰の首か見分けはつかなった。
      桔梗塚の伝説
      岐阜県のとある町に伝わる伝説がある。
      生きのびた光秀は中洞(なかぼら)村(現在の美山町中洞)にかくれ住んでいた。秀吉との合戦に勝てないと見た荒木山城守が身代わりとなって農民に竹槍で突かれ死に、光秀は荒深小五郎(荒木の恩の深さを表わしている)と名のり静かに暮らしていた。関ヶ原の合戦の時に家康に見方しようとしたが、途中厚見郡藪川で洪水にあい死亡。家来の又五郎、忠右衛門、彦太郎、親兵衛らが、遺品を持ち帰り、中洞に墓をたてた。これが今の中洞上ノ街道古屋敷というところにある石の塔と五輪の塔で、墓は桔梗塚と呼ばれ現在も残っている(写真)。
      光秀の家紋は桔梗である。
      光秀生存を暗示するもの
      比叡山のある寺に不思議な石灯籠がある。その灯籠には次のような字が刻まれている。「慶長二十年奉寄進願主光秀二月十七日」。つまり慶長20年2月17日に光秀が寄進したというのだ。この光秀とは何者だろう。江戸時代に明智光秀が生きていたのだろうか。
      大阪-岸和田にある本徳寺という寺には光秀の位牌が残っている。その光秀の位牌の裏にもまた謎めいた文字がある。「当寺開基慶長四巳亥」とあり、慶長4年に寺の寄進者になっているというのだ。慶長年間に光秀が生きていたことになる。この位牌には他にも文字が書かれているのだが、上から漆が塗られ消されている。何が書いてあったのだろう。何とか解読してみたいものだ。
      また、この本徳寺には唯一の光秀の肖像画が残っている。この肖像画にもやはり光秀が生き延びたのではないかと思わせる一文がある。それは「放下般舟三昧去」の部分で、つまり、仏門に入り去っていったということである。光秀はこの寺に来て、仏門に入り、その後寺を出たのだろうか。どこへ行ったのだろうか。本徳寺は光秀の子が住職だったことがあることでも知られている。
      光秀が生き延びた可能性を窺わせるものを紹介したが、生き延びたのであればその後の光秀はどうなったのであろうか。肖像画に書かれているように、仏門に入ったのであろうか。最初の推理通り、本能寺の変の黒幕が家康であるなら、どこかに接点が出て来ないとおかしい。
      天海僧正
      さて、家康の相談役的な存在に南光坊天海という人物がいる(写真/東毛歴史資料館)。「黒衣の宰相」と呼ばれた人物である。名前の通り仏教僧だが、関ヶ原の合戦の頃、突如歴史上に登場する。それ以前、どこで何をしていた人物なのかは不明。一応、1536年に生まれ1643年に病没ということはわかっているが出生は不明。一応、1536年に生まれ享年108歳と伝えられているが120歳という説もあり推定の域を出ない。「私は一度死んでいる」という風説も聞くが、この天海こそ光秀ではないかと疑いたい人物なのだ。『明智旧稿実録』では光秀は1528年生まれとされているが、これも確かな数字といえるかは微妙なところのようだ。この定説でも10歳の差もないので、確定的なことが言えない両者の年齢では誤差のうちと言えるのではないだろうか。
      『両大師伝記』では、天海は足利義澄(11代将軍)の子とされている。武田信玄の生まれ変わりという説もある。天海はかつて信玄の保護のもと論席を開いている。おそらくこれは天海の家康への献策、具申が信玄の政策と似ているところからのものではないかと思う。
      天海は、関ヶ原の合戦の頃に突然家康の側に仕えるようになり相当の信頼を得ているが、これは高僧だからということなのだろうか。同様に家康周辺には何人かの僧がいたが、この中でも最も信頼されているようだ。しかも僧であるにもかかわらず、戦術に優れ、合戦の際には作戦会議で意見を言ったりしている。当時、僧と言えども戦さの知識はあったものだが、それにしても他の歴戦の武将を差し置いて相当な戦さ上手の僧というのも不思議な気がする。
      天海の姿は『関ヶ原合戦図屏風』で見ることが出来る。この中では最後方の家康の近くで鎧をつけている。「南光坊」と書かれているので間違いない。僧でありながら鎧をつけているのだ。
      何とこの鎧、大阪城に現存している。大小の立派な角があるところなど、敵から身を守るための鎧というよりは、身分の高さや威厳を表わしているように思えるがどうだろうか。
      関ヶ原後も天海は家康の最重要側近として重用され、秀忠、家光にも仕えている。天海が家康に仕えただけでは光秀との接点は何もないが、実は意外なところから光秀との接点が出てくる。
      春日局
      3代将軍-家光の育ての親は春日局であるが、通常春日局には誰でも会えるわけではない。後の将軍になる人の親の立場なわけだから当然だろう。だが、天海だけは例外である。それどころか、春日局の方がへりくだった態度をとっているように思えるふしがある。初めて春日局と天海が会う場面で、春日局は平伏し「お久しゅうございます」と言ったというウワサがあるが、とすると初対面ではなかったことになる。春日局と天海はどういう関係だったのであろうか。
      春日局は土岐氏に仕えた斉藤利三の娘である。つまり謀反人-光秀一族の側の人間なのである。謀反人に近い人物が次期将軍を育てる。それも家光の母は信長側の血筋のお江の方である。お江の方にとっては、時と場所を変えて敵に出会ったようなものかもしれない。とても我が子を託す気になどなれなかったであろうと私は想像するが。
      この不思議に輪をかけるような話しがある。が、これは後にあらためて述べる。
      土岐氏出身の春日局と光秀。もし光秀が生きていたら、当然光秀の方が格上である。天海が光秀であれば平伏するのは当然のこと。
      秩父神社
      日光東照宮の雛形として家康が造営を命じた秩父神社という神社がある。この神社の拝殿と本殿の幣殿東側面には竹笹を持つ僧侶らしき人物の彫刻がある(写真)。飛騨の工人-左甚五郎作と言われるもので、日光東照宮の「眠猫」等も彼の作品と言われている。が、この人物も架空の人物という説が強い。妙見信仰関連の彫刻の中の一つの彫刻にすぎないのだが、よく見ると桔梗紋をつけている(写真では小さすぎて見えないが実際に見るとハッキリわかる)。
      明智の桔梗である。秩父神社ではこの彫刻以外には徳川の葵紋があるが、この人物だけ桔梗なのである。桔梗の僧侶。秩父神社の造営時には天海の弟子が派遣されていることからも、「桔梗」から光秀を、「僧侶」から天海を連想させる。また秩父神社の南に慈眼寺、その近くに明智寺もあるが——?
      2代将軍-秀忠、3代将軍-家光の名付け親は天海だが、日光東照宮にはこの時の文があり、斜めに折り畳むようになっているのだが、何と、折り畳むとそれぞれの一字が現れ「光秀」となるのだ。考えすぎかもしれないが、4代将軍-家綱、5代将軍-綱吉に共通される「綱」も、明智光秀の父「光綱」の名から意図的に抜き出したという説もある。
      東照宮
      風水学的に言って、江戸はかなり良い条件を備えた場所と言われるが、唯一のウィークポイントが北の方角なのだそうだ。ここに徳川を守るものを置けば完璧となる(筆者、風水の知識ゼロのため人に聞いたものそのまま)。こう進言したのも天海である。家康が死に、江戸の北にあたる日光に東照宮を建てる際に指揮したのも天海だ。この東照宮にもまた多くの謎がある。
      日光東照宮は日光山輪王寺に隣接していて、家康の遺言を受けた天海らが中心となって、久能山(静岡県)に埋葬されていた家康の遺骸を改葬して祀った絢爛で豪壮な霊廟である。元和3年(1617年)に原型が出来上がり、家康21回忌法要を機会に大改修がなされ、寛永13年3月に完成した。天海は遺言に従い、山王一実神道に則って「東照大権現」という神号を朝廷から貰い受けて日光山に家康を祀るとともに、代々の将軍は「日光参詣」を行うことによって、徐々に神格化していったのだった。
      日光東照宮は江戸幕府最後の砦を目指して造営されたものであるとも言われ、天然要害の日光連山の地にもかかわらず構造物に石材を多用している他、装飾品には銅など、鋳造しやすい金属をふんだんに使用し、弾丸に転化できるようにしているという。
      さて、東照宮は東照大権現こと家康を祀ってあり、当然ながら徳川家の葵の御紋がたくさん見られる。しかし、陽明門を守る木像の武士の紋はなぜか桔梗である(左写真/足の部分)。光秀の桔梗である。さらに、陽明門の前に立つ鐘楼のひさしの裏には隠れるようにおびただしい数の桔梗紋がある(右上写真)。実際に見ると不気味なほどである。表向きには徳川だが、密かに桔梗紋が沢山入り込んでいるのだ。これは何を意味しているのだろうか。
      東照宮というと日光が有名だが、他にもある。群馬県の世良田にも東照宮がある。世良田というと、徳川という名の発祥の地とも言える場所であるが、この世良田東照宮もやはり天海が作っている。もともと長楽寺の一部だった場所で、天海も住職をしていたことがある。近年、徳川埋蔵金伝説で有名になっているようだ。
      徳川家光
      春日局の項で少し触れたが、なぜ織田家の血が流れるお江の子-家光を光秀側の人間である春日局が育てるのであろうか。乳母は公募で、春日局の夫である稲葉正成が関ヶ原の合戦で小早川秀秋に仕え、家康勝利に大きく貢献した功績を認められてのものと説明されているようだが、それにしても天下を治める将軍を育てるという重職についたばかりか、この後春日局として絶大な力を持つことになるのである。大奥を謀反人に近しい人物に仕切られていて良いのだろうか。織田家の敵にあたる人物をこれほどまでに重用したことだけでも家康が信長と親しい関係ではなかったことがうかがえるのである。
      さて、三代将軍-家光にも謎がある。『東照大権現-大猷院-慈眼大師板絵』(右写真)という絵は家康、家光、天海という変わった3ショットが描かれている。家康、秀忠、家光というならわかる。2代将軍がいない変わりになぜ天海なのだろうか。2人の偉大な将軍とともに描かれているというだけで不思議だ。
      家光の「家」は言うまでもなく家康の「家」だ。では「光」はどこから来ているのだろうか。まさか光秀の「光」ではないだろう。万が一にも光秀の「光」であるとしたら——?そう考えたくなる物証がある。
      それは『松のさかへ東照宮様御文』である。家光の親が秀忠、御腹が「春日局」になっているのだ。家光がお江ではなく、春日局(お福)の子ではないかという説は根強く存在する。そればかりか、家光は秀忠の子ではなく、家康とお福の子であるという説まであるのだ。日光山輪王寺奥院にある家光の墓所には家光が使用していたお守りが現存している(右写真)。そこには「二世ごんげん二世しょうぐん」と書かれている。家光は家康の二世だというのだろうか。また「東照大権現将軍心も体も一ツ也」「いきるもしぬるもなに事も大ごんげんさま次第」ともある。いずれにせよ、家光が春日局の子であれば、春日局-天海コンビの影が家光に強くつきまとっているのも不思議ではない。
      秀忠-お江夫婦が次男-忠長をかわいがり、家光ではなく忠長を将軍にしたがったのはなぜだろうか。後に忠長は家光に命まで奪われている。
      少なくとも、陽明門の桔梗紋、謎めいた天海、そして春日局と、謀反人のはずの光秀の匂いが強く徳川の世に残っているということは言えるだろう。
      かごめかごめ
      さて、突然ここで話しは大きく飛ぶ。童謡の「かごめかごめ」である。日本人なら誰でも知っているあの歌である。昭和36年に出版された全国童唄集『わらべうた』では、この歌の発祥の地を千葉県野田市の愛宕神社(写真)としているが、そういえば本能寺の変の前の光秀の連歌会の場所も愛宕神社であった。(私は愛宕神社と「かごめ」を結び付けるものは何も知らない。情報求む)
      ところでこの歌の意味をご存知の方はいるだろうか?ご存知ならば教えて頂きたい。謎なのである。一説には天海が残した謎掛けだという。
      この唄は江戸時代の『竹堂随筆』という童謡に関する最も古い文献にも登場しているが、現在のものとは少し違うようだ。しかし歌いつがれてゆく童謡に正式なものなどあるはずもなく、わかる範囲内で考えるしかないだろう。
      「かごめかごめ籠の中の鳥はいついつ出やる夜明けの晩に鶴と亀がすべった後ろの正面だあれ」「出やる」は「出よう」という説もあるが定かではない。私もこの歌の解読は出来ないが、少しだけ考えてみたいと思う。ここでこれを取り上げるのは、この歌が天海の作とされ、また光秀とも関係がありそうだからだ。
      謎解き
      まず「かごめ」である。おそらく「籠目」であろう。籠を編んだ六角形のことを言っているのではないか。「籠の中の鳥」は「六角形の中のニワトリ」と考えられる。なぜニワトリかというと、この歌の2番に出てくるからだ。2番があること自体知らない方があるかもしれない。2番もやはりかなり難解である。後で紹介しよう。その前にニワトリだが、ニワトリは古来から時を告げる鶏であった。「時を告げる」は「土岐をつげる」ではなかろうか。つまり光秀(天海)や春日の局ら土岐氏の存在を暗示しているのではないだろうか。
      「いついつであう」は「いつ存在を明らかにするのか」ということ。これは「この歌の謎が解かれるのはいつだろうか」とも思えるし、「土岐氏はいつ登場するのか」とも思える。
      「夜明けの晩」は方角を表わしていると思われる。「鶴と亀」はいずれも日光東照宮にいる。「すべった」は「統べった」で、つまり「鶴と亀が統治した」となり、「鶴と亀」は「徳川と土岐」ということになるのではないか。天を舞う鶴が徳川で、亀が土岐だろうか。
      日光東照宮の中の眠り猫の門を過ぎて奥の院に向かって階段を上ると家康の納骨堂がある。その前の小さな池に鶴と亀がいるのだ。鶴は鍵をくわえている。どこの鍵なのだろうか。
      東照宮の中央に「鶴と亀」の彫刻を置いたのも意図的なことではないかと思う。縁起の良い鶴と亀、天を舞う鶴と地を這う亀が一緒にいるということは、天と地が秩序が正しいということだろうか。社殿の配置的には、表門を入ると正面にこの中神庫があり、この軸線をまっすぐ北に延長すると本殿をかすめて奥社を、逆に南に延長すれば参道を経て、江戸を指していることになる。
      籠目
      「かごめかごめ」を作ったのが「天海=光秀」と仮定し、彼の視点からもう少し考えてみよう。明智家の出は岐阜の可児である。可児から夜明けの方向を見ると日光があり、後ろの正面となる晩の方角はその逆方向になる。あの本徳寺がある方角である。本徳寺を後にした光秀は天海となって江戸、日光に向かったのだろうか。これら全てが偶然とはとても思えない。
      家康が葬られたのは静岡の久能山である。久能山から見て鬼門の方角には富士山、世良田東照宮、日光が並んでいる。逆に日光東照宮から見て裏鬼門の方角には天海が祀られ、慈眼堂が建てられている。これも偶然ではないだろう。
      また可児と家康ゆかりの久能山、幕府直轄地で経済の源とも言える佐渡金山、明智一族が移動した福井、そして江戸、日光を結ぶと六角形、つまり籠目になる。
      ちなみにイスラエルの国旗にあるダビデの紋も六角形のカゴメである。天海のもう一つの名を慈眼大師、フリーメイソンの目を思わせ籠目の六角形とも繋がる。光秀が信長に仕えていた頃、信長の娘婿-蒲生氏の家臣にユダヤ人のロルテスがいた。ロルテスは蒲生の家臣として西洋の会計や測量技術をもたらしたが、光秀はロルテスの影響を受けているのではないか。彼の築城術はここから来ているのかもしれない。この築城術で日光東照宮を建てたかもしれない。東照宮はまるで要塞のようである。
      かごめの続き
      「かごめかごめ」が徳川家、明智家、天海が絡む複雑な暗号歌である気がして来ただろうか。この歌の続きを紹介しよう。これは当サイトの掲示板に入った情報によるものであるが、信憑性を感じるものだったのでここで改めて紹介する。詩人の谷川俊太郎氏の編による『日本マザーグース』の中で紹介されているらしい。
      「向こう山で鳴く鳥は、信心鳥かニワトリか。金三郎のお土産に何もらった。金ざし、かんざし、買ってきた。納戸のおすまに置いたれば、きうきうネズミが引いてった。鎌倉街道の真ん中で、一抜け、二抜け、三抜けさくら。さくらの下で文一本ひろった。あくしょ、あくしょ、一本よ」最後の歌詞には別のものがあり「桜の下で文一本ひろった」から「その文だれだ。金三郎の妻だ。金三郎の妻はさんしょにむせた」と続く。
      さっぱりわからない。後で別の人が付け加えたもので何の関係もないものかもしれない。しかし一概にデタラメとも言えなさそうである。「一抜け、二抜け、三抜け桜」は、東照宮の門を表わし、表門、陽明門、唐門を抜けると拝殿に至り、その拝殿には三十六歌仙が桜の彫刻で飾られているのだ。この歌仙のどこかに謎があるのだろうか?
      また「向こう山で鳴く鳥」に対応する可能性として東照宮の東南方向には鶏鳴山があるが関係ないだろうか。
      現段階で私がわかるのはこれくらいだ。何かヒントをつかんだ方があれば教えて頂きたいものだ。
      結びとして
      明智光秀が生き延びた伝説は確かに存在する。天海僧正と光秀とのつながりを暗示させるものも多い。だが「伝説」や「暗示」で歴史の定説は変わらない。小さな可能性を示しているだけである。私が結論として言えることは「謎である」。だから歴史は楽しい。
      東照宮に程近いところに中禅寺湖や華厳の滝が見える平らな場所がある。ここを明智平という。天海上人は明智平に来たときに「良い名だ。とても懐かしく遠くの事のようだ」という意味のことを言ったという伝説が残っている。

(--_(--__(--___--)__--)_--)

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沙发
发表于 2010-2-19 00:59:24 |只看该作者
哇,看得懂也不一定会有耐心翻译呢,何况我还看不懂。

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板凳
发表于 2010-2-19 01:01:58 |只看该作者
用翻译软件啊,在线的翻译软件不难找吧~~~~~~~~~~····

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正六位上 薩摩守
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地板
发表于 2010-2-19 01:06:09 |只看该作者
GOOGLE翻译更乱,看得更迷糊了

(--_(--__(--___--)__--)_--)

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5#
发表于 2010-2-19 01:15:06 |只看该作者
和百度的明智光秀传纪应该是如出一辙的,大意是明智光秀不一般,是忠义之士,没有死,成了德川幕府的幕后人物,他的儿子或者孙子就是德川幕府的第三代将军德川家光。

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散位 武士

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6#
发表于 2010-2-19 01:19:43 |只看该作者
慢慢看+翻字典,我大概看懂8成  ,再加上自己對日史的瞭解,近9成

不過我沒耐心看完,因為我不廚明智....

翻譯,你找O兄吧 = =|



我承認這東西比某些GALGAME的本子有難度

[ 本帖最后由 zhouzongxing 于 2010-2-19 01:48 编辑 ]

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武士

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7#
发表于 2010-2-19 01:33:10 |只看该作者

回复 #6 zhouzongxing 的帖子

我曾经玩一个GAME(啥游戏不能说),玩到最后自己总结出一本攻略,后来我同学都按我写的攻略玩就能达到完美剧情.

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散位 武士

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发表于 2010-2-19 01:52:05 |只看该作者

回复 #7 sss1984sss 的帖子

那啥,我語文不好,你這個是什麽意思?

如果對於一個遊戲有愛,全人物都親自攻略過,自己達成全CG的話,寫出來的攻略

別人照著選,當然也可以完美了

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发表于 2010-2-19 03:34:09 |只看该作者
窩槽,以為就幾句話,結果你給咱po一版字出來。

文章大意就是替明智光秀翻案並稱其實乃尊皇志士,造織田的反是有詔討賊。
然後木下秀吉才是他喵的幕後大黑手,明知此事故意隱瞞不報,讓信長掛點之後冒出來搶桃子。
而我們的明智光秀大英雄有主角光環護身自然不會輕易領便當退場,而是換了個馬甲支持天皇的忠臣德川家滅掉逆賊豐臣家。
於是可喜可賀可喜可賀大團圓啊大團圓。
Intel  E7300
GA-EP45-US3L
现代 DDR2 800 2GB*2
七彩虹 HD5750 1G DDR5
希捷 500G*2 1.5T*2
航嘉 多核DH6

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従五位上 大学頭

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10#
发表于 2010-2-19 09:52:29 |只看该作者
大意就是文章作者厨光秀                        

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发表于 2010-2-19 10:10:17 |只看该作者
阴谋史观+YY
如果只找对自己有利的“证据” 历史就变成八卦了
个人非常反感A饭N饭之说 不就是用了这两家的东西嘛 就潜移默化的让人家成了你的主子了 传说中的中国人的奴性思维...
“日本人是猪”这句话是(  )。
A、拟人。 B、比喻。 C、借代。 D、对比。E、抒情。

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发表于 2010-2-19 10:19:51 |只看该作者
我觉得这个基本上和百度百科里的差不多吧,
あけち みつひで
Akechi Mitsuhide

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发表于 2010-2-19 10:38:09 |只看该作者
我只看懂了汉字。。

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发表于 2010-2-19 11:00:03 |只看该作者

回复 #7 sss1984sss 的帖子

~~~你玩的是h游戏吧~

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武士

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发表于 2010-2-19 11:10:44 |只看该作者

回复 #14 宇都宫秀策 的帖子

我还是啥都不说...............

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從五位下 治部少輔

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16#
发表于 2010-2-19 11:15:28 |只看该作者
这个,这么长哪有人愿意翻译啊................

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发表于 2010-2-19 11:32:14 |只看该作者

这个好象是百度百科里 明智的不死传说部分。

玩游戏嘛当然要有点研究精神,记得以前玩魔力宝贝,在电子算档器还未出世的前两年,咱跟着BOX斑竹学会人工算档后,倒买倒卖那个赚呀。满档的 5000买进,50W卖出。。哈。
现在游戏一般比较傻瓜话了,机会难得了。

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正六位上 薩摩守
吳 樓船水軍

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发表于 2010-2-19 12:26:41 |只看该作者
是写明智光秀的,YY的那种,结尾来了这么一堆日文········吊人胃口呀

(--_(--__(--___--)__--)_--)

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正六位下 弹正忠

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发表于 2010-2-19 14:10:44 |只看该作者
写光秀搞了乌龟老婆,是忠义之士,所以后来他的孙子做了将军叫做德川家光

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